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第2話 優しいふりもできない夫①

Author: なつめ
last update publish date: 2026-06-24 15:16:27

 夜のあいだ、雨が降っていたらしい。

 朝、リュゼリアが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ濡れた石畳の鈍い光が残っていた。雲は低く垂れこめ、庭の木々は細い枝先に水滴をいくつもぶら下げたまま、じっと息を潜めている。いつもの冬の朝よりも空が暗く、そのぶん寝室の中もひどく静かだった。

 薬湯の苦い匂いが、まだ薄く空気に残っている。

 昨夜は医師が処方した鎮咳の薬を飲み、アイダに何度も額を冷やされ、ようやく浅い眠りに落ちた。眠っているあいだも何度か咳で目が覚めた気がするが、それでも、横になっていた時間が長かったぶん、体はわずかに軽かった。

 胸の奥にある針のような痛みは消えていない。けれど昨日のように呼吸のたびに鋭く刺すのではなく、奥のほうでじくじくと居座っている感じだ。喉の奥には血の味は残っていない。それだけで、少し救われる。

 枕元に置かれた時計を見ると、いつもより遅い時刻だった。

 そういえば昨夜、アイダが「明朝はお食事の時間まで無理に起き上がられませんよう」と言っていた。公爵夫人が朝の食卓に現れないのは、本来なら好ましいことではない。屋敷の主人たちが顔を揃える食事は、そのまま家の秩序を
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    「今日は、少し寒いわね」 リュゼリアが花壇を見たまま言う。「ああ」「でも、昨日より香りが濃い」「土のか」「ええ。陽があるからかしら」 ヴィルレオには、その差まではわからない。ただ、彼女がそう言うのならそうなのだろうと思う。「白のほうが開いてきたわ」「見える」「青は風に弱そう」「お前みたいだな」 思わずそう口にした途端、リュゼリアが一瞬だけ彼を見た。驚いたのかもしれない。あるいは、その言葉の不器用さに困ったのかもしれない。 ヴィルレオ自身も、自分で何を言っているのかわからなかった。青い花が風に揺れているのを見て、ただ、細く頼りなく見えるのに土へ根を下ろしている姿が彼女と重なっただけだった。「そうかしら」 ややあって返ってきた声は、ごく薄い笑みを含んでいた。「わたくしは、あんなにきれいな青ではないわ」「そういう意味ではない」「では、どういう意味?」 問われると、うまく言えない。 風が吹けば揺れる。揺れるのに、ちぎれずに立っている。そんなことをどう言葉にすればいいのか。「……弱そうに見えて、根はある」 ようやくそう言うと、リュゼリアはしばらく花壇を見ていた。「ええ」 やがてぽつりと答える。「そうでないと、ここまでは来られなかったでしょうね」 その一言は、自分で自分を褒める響きではなかった。むしろ、ようやくそこまで辿りついた疲れを含んでいるように聞こえた。 ヴィルレオはその横顔を見つめる。 頬はやはり白い。風が少し強くなるたび、肩がかすかに縮む。咳もまだ消えていない。ほんの少し立って歩くだけで息が乱れる。それでも、彼女はここにいて、自分の根でようやく立っているのだ。 そこへ、今さら自分が手を伸ばしていいのか。 頭では何度も否と答えが出ている。 だが、目の前で風が彼女の外套の襟を少しずらし、白い首筋が冷気へさらされた瞬間、ヴィルレオの指先は無意識に動いた。 伸ばしかけて、止まる。 たった数寸の差だった。 その手を、リュゼリアは見た。 正確には、動こうとして止まった、その一瞬を。 彼女の薄青い瞳が、彼の指先へ落ちる。 それだけで、ヴィルレオの胸の奥がひどく冷えた。 この手は、何をするつもりだったのだ。 外套を直すのか。 首筋を冷やすなと触れるのか。 どちらにせよ、それは王都で彼が一度もしてこなかっ

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     リュゼリアが粥をひと匙すくう。口へ運び、ゆっくりと飲み込み、それから小さく息を吐く。その一連の動きのどこにも無駄がない。少ない力で、少ない負担で、きちんと食べるための所作になっている。こういうところにも、彼女がこの別邸で少しずつ自分の身体と折り合いをつけ始めていることが見える。「今日は、庭へ?」 ヴィルレオが訊くと、リュゼリアはわずかに目を上げた。「先生が許してくだされば」「昨日より、少し疲れて見える」 言った瞬間、その物言いがまるで医師のようだと自分で思った。夫としての情ではなく、体調を管理すべき対象へ向ける声に近い。 リュゼリアも同じように感じたのかもしれない。ほんの一瞬だけ、目の奥にかすかな影が差した。「ええ。だから、無理はしないわ」「……そうか」 それ以上、言葉は続かなかった。 食堂の窓の外では、風がまだ少し冷たそうに低木を揺らしている。白と青の花壇は、ここからは見えない。ただ、そこにあることだけは知っている。 ヴィルレオは、自分がずっとリュゼリアの手元ばかり見ていることに気づいた。カップを持つ指。スプーンを置く指。ナプキンの端を押さえる指。そのどれもがかつて、屋敷の細部を整え、自分の不機嫌や体調の揺れまで吸収していた指なのだと思うと、胸の奥がざらついた。 触れたい。 今朝も、ふとそう思う。 手が冷えているのではないか。細すぎるのではないか。茶の温度は大丈夫か。 そんな小さなことでさえ手を伸ばしたくなる。 だが、彼女が今こうして落ち着いて食事をしている時間の中へ、自分の手だけが異物のように差し込まれる気がして、結局何もできない。 その無力さを、ようやく「当然だ」と思える自分がいた。     ◇ 昼前の診察のあと、医師は「今日は外気に当たるのは短く」と告げた。 昨日よりやや咳が残っていること、夜の眠りが浅かったこと、朝の熱がわずかに高めであること。その三つを理由に、庭へ出るならほんの少しだけ、日の高いうちに、椅子へ座ったままでと念を押す。 リュゼリアは素直に頷いた。 王都にいた頃の彼女なら、医師の言葉を受けつつもどこかで「でも」を探していたかもしれない。食堂へ下りる必要、返書、来客、帳簿。何かしら理由を見つけては、自分の身体のほうを後ろへずらしただろう。 いまは違う。 少しだけ残念そうな顔はしたが、その残念さ

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     翌朝、ヴィルレオは夜明けより少し前に目を覚ました。 眠れなかったわけではない。意識は何度か落ちた。だが、その眠りはどれも浅く、水面に浮かぶ薄い氷みたいに脆かった。まぶたを閉じても、昨夜のリュゼリアの声が、静かなまま何度も耳の奥へ戻ってくる。 今さら遅いのです。 怒っていたわけではない。 泣いていたわけでもない。 ただ、もう期待していないのだと、そう言っただけだった。 その穏やかさが、かえって鋭かった。 ヴィルレオは寝台の上で片腕を額へ乗せたまま、客室の薄暗い天井を見ていた。別邸の朝はまだ来ていない。窓の外には薄青い闇が残り、湖のほうからくる風が、閉じた窓を細く鳴らしている。暖炉の火はとうに落ち、部屋の空気は冷えすぎぬ程度に静かだった。 ここは王都の屋敷ではない。 大理石の廊下も、夜通し完全には眠らぬ使用人たちの気配も、遠くで響く馬車の音もない。別邸の朝は遅く、柔らかい。だからこそ、ひとりで目を覚ましている時間が長すぎる。 その長さの中で、昨夜からずっと同じことを考えていた。 触れたい、と思う自分がいる。 咳き込んだ彼女の背へ手を伸ばしたい。冷える夜には肩へ落ちるショールを整えたい。歩く時に少しふらつけば、先に腕を差し出したい。茶を取る指先が冷えていれば、自分の手で温めたくなる。 そんな衝動が、今さらになってひどく生々しくある。 だが、そのたびに同じところへ戻る。 資格がない。 資格、という言葉が正しいのかはわからない。夫なのだから、世間の形としては触れる資格などあるのだろう。けれど、彼の胸の内で立ち上がるその感覚は、もっと別の種類のものだった。 かつて触れてよかったはずの時間に、自分は触れなかった。 朝の頬にも、夜の寂しさにも、食卓で伏せられた睫毛にも、扉の前でためらう背中にも、何一つ触れようとしなかった。 触れるべき時に触れなかった男が、今さら遅れて手を伸ばしても、それは彼女にとって慰めではなく、ただの驚きか、あるいは重さにしかならないのではないか。 そう思うたび、腕の中で何かが鈍く冷えていく。 寝台を下り、ヴィルレオは窓辺へ歩いた。カーテンを少しだけ開ける。外はまだ薄闇だ。庭の輪郭だけが見え、南側の花壇は影の中に小さく沈んでいる。あの白と青の苗も、今は夜露を抱いて黙っているのだろう。 そこへ彼女がまた座るのは、陽が

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    「……そうか」 言葉にすると、敗北に似た響きがあった。 けれどそれを否定する気にはなれなかった。ここで彼女の言葉を否定することだけは、もう絶対にしてはならない気がした。 リュゼリアはほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。「ごめんなさいね」「なぜ、お前が謝る」「旦那様が、せっかく言葉にしてくださったのに」 その言い方に、ヴィルレオは思わず目を閉じたくなる。 彼女は最後まで優しい。優しいくせに、その優しさはもう彼へ向けて身を削る形では差し出されない。そういう優しさだ。だから余計に遠い。「……もういい」 ヴィルレオは低く言った。 そして、言ってからその言葉のまずさに気づく。もういい、ではない。何ひとつ、よくなどない。だが、それ以上を今ここで言葉にする力がなかった。 リュゼリアもまた、そのまずさに気づいたのだろう。けれど指摘はしなかった。ただ、少しだけ疲れたように目元を和らげる。「今夜は、もう休みましょう」「……ああ」「外は冷えますし」「そうだな」「旦那様が風邪を召しては困るわ」 その気遣いが、かつてと同じ言葉なのに、かつてとは違う場所から来ているとわかる。彼女はもう、自分の心を預けたまま彼を案じてはいない。ただ、目の前にいる体調を崩しやすい人間として気遣っているだけだ。 それだけの違いが、こんなにも深く突き刺さる。 ヴィルレオは椅子から立ち上がった。足元が少し重い。扉の前まで行き、振り返る。 リュゼリアはまだ窓辺の光の中にいた。白い頬。薄青い瞳。細い指。温かさを失いかけた茶。外套の裾に乗る灯り。その全部が、届きそうで届かない。「……おやすみ」 結局、最後はそれだけだった。 リュゼリアは静かに頷く。「おやすみなさい」 扉を閉める。 廊下の冷たい空気が頬へ触れた。 今さら遅いのです。 その一言は、怒りではなかった。だからこそ、どこにも跳ね返らず、真っ直ぐ胸の奥へ沈んでいく。 彼女はもう期待していない。 その事実は、謝罪が届かなかったことよりもずっと重い。 期待されないということは、責められないということでもある。怒りも、すがりも、求めもない。そこに残るのは、ただ相手がもう自分へ未来を預けていないという、静かな断絶だけだ。 ヴィルレオは廊下の途中で立ち止まった。 春の夜気はまだ冷たい。だがその冷たさのほう

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第24話 今さら遅いのです④

     自分がようやく変えようとしているものは、彼女が期待を捨てることでしか耐えられなかった時間のずっと先にある。今さら「これからは違う」と言ったところで、その捨てられた期待が戻ってくるわけではない。「わたくし、もう待っていないの」 その一言は、怒鳴り声よりよほど重かった。「だから、旦那様が何かを変えると仰っても……昔のわたくしなら、きっとすごくうれしかったと思う」 ここで初めて、彼女の声が少しだけ揺れた。「でも、今のわたくしには、それを喜ぶための期待がもう残っていないのです」 ヴィルレオは目を伏せたい衝動に駆られた。だが、それは彼女の言葉から逃げることになる。かろうじて堪える。「……戻せないのか」 掠れた声だった。「何を?」「期待を」 リュゼリアはしばらく答えなかった。 窓の外を風が撫でる。卓上の茶が少し冷め、薄い湯気が途切れる。「わからないわ」 やがて彼女は言った。「でも、少なくとも今すぐには無理よ」 その答えは残酷なほど率直だった。「期待というのは、言葉ひとつで戻るものではないもの」「……そうか」「ええ」 そしてそこで、リュゼリアは少し困ったように首を傾げた。「怒っていたら、まだ簡単だったのかもしれないわね」 ヴィルレオは眉を寄せる。「簡単?」「ええ。怒っているなら、ぶつける先があるでしょう?」 その言葉に、胸の奥が静かに裂けるような心地がした。「でも、今のわたくしは、怒っているわけではないの」 リュゼリアは穏やかに続ける。「ただ、もう期待していないだけ」 それは、終わりの言葉に近かった。 終わりといっても、関係そのものの断絶ではない。怒って絶縁するような激しいものではない。もっと静かで、もっと冷えた終わり。相手が何かを変えるかもしれない未来に、自分の心を預けないという決意。 ヴィルレオはようやく、その重さを本当の意味で知った。 謝罪が届かないことよりも。 時間が戻らないことよりも。 彼女が自分へ期待することをやめた、その静かな事実のほうが、ずっと決定的なのだ。「……俺は」 言葉が喉で止まる。 何を言おうとしたのか、自分でもわからない。期待しなくていいと言うべきか。もう一度期待してほしいと言うべきか。どちらも違う気がした。 結局出てきたのは、あまりに弱い問いだった。「それでも、何かできる

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